2013 紀伊半島【27】(6日目・その4)

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高野山 奥の院にて






2013.08.27(火)


高野山に到着しました。まずは奥の院から散策してみます。
クルマは前回同様、奥の院の入り口(一の橋)では無い途中の路上にある駐車スペースに停めました。
ここは駐車料金が0円なのです。
順路的には少々中途半端な位置なのですが、ムダな出費はしたくありませんので・・・


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この地図で云うと、一の橋と中の橋の中間部あたりに停めました。(奥の院と併走している車道があります)


寺院群の東端にある一の橋から二の橋を経て御廟橋まで、約2キロにわたる参道沿いに無数の石塔が立ち並ぶ。
御廟橋を渡ると空海入定の地とされる奥の院である。一番奥には空海が今も瞑想されている御廟があり、
その手前には信者が供えた無数の灯明がゆらめく燈篭堂がある。
空海は62歳の時、座禅を組み、手には大日如来の印を組んだまま永遠の悟りの世界に入り、
今も高野山奥の院で生きていると信じている人もいる。
「死去」「入寂」「寂滅」などといわず「入定」というのはそのためである。

奥の院参道に沿って並ぶ石塔の数は10万基とも20万基とも言われ、
皇族から名もない人々まで、あらゆる階層の人々が競ってここに墓碑を建立した。
日本古来の信仰では、山中は「他界」であり、死後の魂の行くところであった。
高野山周辺には、人が死ぬとその人の頭髪を奥の院に納める「骨上せ」(こつのぼせ)という風習がある。
こうした古来の山岳信仰に、弘法大師の永眠する土地に墓碑を建てたいという人々の願いが加わって、
この石塔群が形成されたものと思われる。

奥の院には上杉謙信・景勝霊屋(たまや)、松平秀康及び同母霊屋、佐竹義重霊屋など、
建造物として重要文化財に指定されているものを始め、
平敦盛、熊谷蓮生房、織田信長、明智光秀、曾我兄弟、赤穂四十七士、法然、親鸞、初代 市川團十郎、
俳優の鶴田浩二など古今の様々な人物の墓碑や供養塔がある。また芭蕉や高浜虚子の句碑もある。



正式には一の橋から参拝らしいので、参道に入ってからは一の橋に戻るように数百メートルを歩きます。

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歴史を感じさせる通りです。かなりの樹齢となっていると思われる杉並木の中を歩いて行きます。

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秋田は佐竹家です。 佐竹の殿様とは良く云われていますね!?

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一の橋までやって来ました。

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ちなみにこの地図は立て看板を撮影したものです。

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この一の橋を渡って入って行くのが正式な参道です。


この橋は、弘法大師御廟に向かう参道入口で最初に渡る橋なので、一の橋と言われます。
正式には大渡橋(おおばし)と言われ、昔から、お大師様が人々を、
ここまで送り迎えしてくれると言い伝えられ、今でも、この橋の前で合掌一礼してお参りします。



しばらくは、たった今歩いて来た道を折り返すことになります。

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司馬遼太郎の名が刻まれていました。

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薩摩は島津家の霊屋

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平日だからなのか、場所(手前過ぎ?)の関係か、ふっと誰も人が見えなくなる時がありました。

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松前藩は松前家なのですね

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こちらは地元、紀州徳川家

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上杉謙信の廟です。

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今となっては石田三成と・・・

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明智光秀の墓所はすぐ近くにあるのです。


苔むした巨石が積みあがっていますが、供養等はだいたいこのような形をしていて、
五輪搭といい、五輪塔は仏教の地水火風空の五大を表すとされています。
下から、地輪は方形(六面体)、水輪は球形、火輪は宝形(ほうぎょう)屋根型、風輪は半球形、
空輪は宝殊型によって表されていて、密教系の塔で、各輪四方に梵字を表したものが多いそうで、
実際に真言密教の高野山の五輪塔には凡字を見ることができます。



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このような脇道!?を入って行くと、まだまだたくさんの墓所があると思われます。

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中の橋を渡ります。


この橋は、一の橋と御廟橋(ごびょうばし)の中間にあるので、中の橋と言われます。
正式には手水橋(ちょうずばし)と言われ、平安時代には、この場所で、身を清めていました。
ここを流れる川は、昔から金の河と呼ばれ、金は死の隠語を表し、死の河、つまり三途の川を表しているそうで、
この橋を渡ると、これから先は、死の世界に入ると言う意味になるようです。



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高野山は標高が高い(900mくらい)ので、8月とは云ってもすごく暑いというわけでもありません。

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芭蕉の句碑がありました。

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こちらは・・・

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結城(徳川家)秀康の廟は重要文化財です。

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豊臣家の墓所です。

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豊臣家の墓所は他の武将よりも少々広い敷地にあります。直接墓所に入れないように柵も設けられていますが、
柵の前には常にお供え物が置かれていて、関西に馴染みのある「太閤様」の人気を垣間見ることができるでしょう。
現在名前が確認されているのは、母のなか、弟の大和大納言秀長夫妻、秀次の母である姉のとも、
長男の鶴松、それに淀君の逆修碑(生前にあらかじめ用意されたもの)と推定されるものの六基です。


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そして、織田信長

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玉川です


御廟橋の下を流れる川は、奥の院裏山、霊峰楊柳山より流れ出る清水でございます。
川の中に立てられている卒塔婆(そとうば)は、流水灌頂(ながれかんじょう)と言い、
水難事故や難産で、この世を去った人々の霊を水で清め追善供養する為に建てられています。
また、この川に住む小魚には昔、子供たちが魚を串に刺して焼いていた処、お大師様が通りかかり、
私にもその魚をいただけませんかと、子供たちから分けてもらい、魚の串を抜いて自ら玉川に放したところ、
焼かれた魚が、生き返って泳いだと言う伝説があり、今もその背中には、その時の串の跡と言われる斑点が見られます。



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歩き続けていくと、いよいよ奥の院のハイライトともいうべき
灯籠堂、そして弘法大師御廟までやってまいりました。

その入り口に御廟橋という橋があるのですが・・・

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このような看板があります。


この橋を渡ると大師御廟への霊域に入ります。
この橋を渡る人は、橋の前で服装を正し、礼拝し、清らかな気持ちで霊域に足をふみ入れます。
この橋は、36枚の橋板と橋全体を1枚として37枚と数え、金剛界37尊を表していると言われ、
橋板の裏には、仏様のシンボルの梵字が刻まれています。
この橋の上で、あの苅萱道心(かるかやどうしん)と石童丸親子(いしどうまる)が初めてめぐり合ったとも伝えられています。
この橋は従来、木の橋でしたが、現在は原型通りの石橋に架け替えられています。



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ですので、写真は御廟橋の手前で望遠を使用して撮ったものだけです。


そしていよいよ燈籠堂に入ります。

燈籠堂は真然大徳(しんぜんだいとく)が初めて建立し、その後、藤原道長によって
西暦1023年(治安3年)に現在に近い大きさの燈籠堂が建立されました。
堂内正面には、千年近く燃え続けていると言われる二つの「消えずの火」があります。
一つは、祈親上人(きしんしょうにん)が献じた祈親灯(きしんとう)。
もう一つが、白河上皇が献じた白河灯(しらかわとう)です。
この祈親灯の事を、祈親上人のすすめで貧しい生活の中、自らの髪を切り売ってまで工面したお金で、
献灯したと伝わるお照(おてる)の話に因んで貧女の一灯(ひんにょのいっとう)と呼ぶ説もあります。
それにあわせて白河灯の事を、長者の万灯と呼び、貧女の一灯、長者の万灯の伝説が残るお堂です。



自分のような宗教を理解していない一般人でも、ここの重厚な雰囲気は伝わって来ます。
しばし厳粛な時間を過ごしたのでした。


更にその奥にあたる場所にある弘法大師御廟へと・・・


弘法大師御廟は、大師信仰の中心で聖陵です。転軸、楊柳、摩尼の三山の千年杉に周囲を囲まれ、
奥深く厳かな、たたずまいを見せています。
お大師様は、西暦835年(承和2年)3月21日寅の刻、御年62歳で、予てからの予言通り御入定なさいました。
玉川の清流に沿った台地に、ご入定前には、既に納涼坊、総修堂が建立されており、
お大師様自ら廟所と決められていたとも伝えられています。
御入定後、お弟子たちは、予定通りその場所に御廟を建立され、御入定後86年を経て、
西暦921年(延喜21年)醍醐天皇より弘法大師の諡号(しごう)を賜りました。
この御廟で祈れば、お大師様は必ず応えて下さると言われており、
入定留身の聖地として今日なお廟前に祈りを捧げる参拝者は絶えません。



なにやらわからぬ、ものすごいパワーがありますね。

ここには。

参拝を済ませて戻ってまいりました。



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御廟橋のたもとの玉川沿いに並んでいる水かけ不動です。


玉川の清流を背にして金仏の地藏菩薩や不動明王、観音菩薩が並んでいらっしゃいます。
奥の院に参詣する人々は、御供所で水向塔婆を求めて、このお地蔵さんに納め、
水を手向けてご先祖の冥福を祈ります。



さて、ここから先は今まで歩いて来た道を戻って行きます。
御廟橋まで来て思ったのですが、参拝者の大多数はクルマをその直近の駐車場に停めているようです。
ですので、この周辺は人口密度が高い!?のですが
中の橋方面へと歩いて行くに連れて、また人の数も減って行きました。


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浅野内匠頭の墓所がありました。

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石屋のトラックはパートタイム四駆で、エクストラのローギアが着いていて階段を上っていました。

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灯籠に灯が入る時間になりました。

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中の橋の戻った時には人もおらず・・・

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伊達政宗の墓所なども通りつつ・・・

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クルマを停めてあるところまで戻って来ました。


今宵泊まる宿坊では夕食の時間が17:00からでしたので、早めに向かうことにします。

もう、ここからはほどない距離です。


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by chage_diary | 2013-09-08 18:10 | お出かけ | Comments(0)
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