南紀 その2(高野山)
2011年 11月 18日
高野山に到着っ。
2011.11.12(土)
高野山に到着・・・とは云っても、
正直云ってここがどのような場所なのかが、良くわかっていない自分が居ます。
ただ・・・ここには名だたる戦国大名達の墓が集まっているので、今に見てみたいくらいの知識しかありませんでした。
高野山(こうやさん)は、和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称。
平安時代の弘仁10年(819年)頃より弘法大師空海が修行の場として開いた高野山真言宗、
ひいては比叡山と並び日本仏教における聖地である。
現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。
山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)をはじめ117か寺に及び、
その約半数が宿坊を兼ねている。
平成16年(2004年)7月7日、高野山町石道と山内の6つの建造物が熊野、吉野・大峯と共に
『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界文化遺産に登録された。
なんとなく分かってはいたものの、やはりたいそうな所でした。
高野山全体はエリアが広すぎて、とうてい半日程度では見尽くすことは出来ないので
まずは壇上伽藍の周辺と、時間によって奥の院を回ってみることにします。
最初は壇上伽藍近くの駐車場(無料でした)にクルマを停めました。
壇上伽藍(壇場伽藍)
空海が曼荼羅の思想に基づいて創建した密教伽藍の総称であり、
高野山の二大聖地の一つである(ほかの一つは奥の院)。
金堂は高野山全体の総本堂で高野山での主な宗教行事が執り行なわれる。
ほかに大塔、御影堂、不動堂などが境内に立ち並び、不動堂は世界遺産に登録されている。
また、弘法大師伝説のひとつである飛行三鈷杵がかかっていたとされる「三鈷の松」や、
高野四郎(俗称)と呼ばれる大鐘楼も伽藍に存する。
奥ノ院を除く、高野山の全体的な地図です。 壇上伽藍はこの地図で云うと真ん中あたりです。
大師協会本部と書かれていました。
歩いてほどなくして、紅葉がキレイな通りを見つけました。
あとあと調べてみると、蛇腹道と云って有名な通りのようなのですが・・・
こちらに入って行きます。
伽藍入り口から東塔東側付近までのびる小道を「蛇腹路」と呼びます。
高野山はお大師さまが「東西に龍の臥せるがごとく」と形容され、
壇場伽藍を頭として現在の蓮花院(れんげいん)までを龍が臥している形に例えたのでした。
そして、ちょうどこの小道が龍のお腹付近にあたることから蛇腹路と呼ばれるようになりました。
う~ん、いい感じです。
もう紅葉はとっくに終わっていると思って来たので、思いがけずに良い景色を見させて頂きました。
蛇腹路より進行方向を見ると、なにやら寺院が見えて来ます。
同じ場所で、後ろを振り返って・・・
東塔(とうとう)と云うようです。
大治2年(1127年)、白河院の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正(だいごさんぼういんしょうかくごんのそうじょう)
によって創建されました。
当初は上皇等身の尊勝仏頂尊(そんしょうぶっちょうそん)が本尊として奉安され、
不動明王、降三世(ごうさんぜ)明王の二体も脇侍(きょうじ)としてまつられました。
天保14年(1843年)に焼失してからしばらくの間再建されず、
140年たった昭和59年(1984年)にようやく再建されました。
こちらは大会堂(だいえどう)
鳥羽法王の皇女である五辻斎院(ごつじさいいん)内親王というお方が、父帝の追福のため建立されました。
もとは別の場所に建立されていたのですが、長日不断談義(ふだんだんぎ)の学堂として壇場に移し、
蓮華乗院(れんげじょういん)と称するようになりました。
後にこの論議は衰退し、現在では法会執行の際の集会所的役割を担うようになりました。
現在の建物は嘉永元年(1848年)に再建された五間四面のお堂で、本尊は阿弥陀如来が奉安され、
脇侍(きょうじ)として観世音菩薩、勢至(せいし)菩薩がともにまつられています。
そして、いよいよ高野山の中軸!?と思われる大塔へ・・・
大塔(だいとう)ですっ。
お大師さま、真然大徳(だいとく)と二代を費やして816年から887年ごろに完成したと伝えられます。
お大師さまは、この大塔を真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので、
根本大塔(こんぽんだいとう)と呼んでいます。
多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲み、
16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、
四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、
堂内そのものが立体の曼荼羅(まんだら)として構成されています。
北側に安置されている二体の仏様は多聞天(たもんてん)と持国天(じこくてん)で、
江戸時代の作といわれています。この二尊(にそん)は、もともと中門に安置されていたもので、
火災から奇跡的に免れて、西塔へ収められていました。
ここだけは拝観料200円也を納めて、中に入ってみます。
信仰心!?については、語るものもない人間なのですが
中にあるものの凄さは、なんとなく伝わって来ました。
(そもそも実家の宗派も良くわかっていませんから・・・)
感想になっていないですね(汗)
御影堂(みえどう)だそうです。
もとは、お大師さまの持仏堂として建立されましたが、後に真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安し、
御影堂と名付けられました。桁行15.1メートル、梁間15.1メートルの向背付宝形(ほうぎょう)造りで、
堂内外陣にはお大師さまの十大弟子像が掲げられています。
当然、自分みたいなのばかりではなく、ちゃんと参詣されている人もたくさん居ました。
なんでも日本の約8パーセントの国宝・文化財が、ここ高野山に集中しているそうです。
このようなとんでもない所だということは、実は帰ってきてから知ったのですが・・・(汗)
蛇腹路を戻ります。 いい紅葉です。
やはり奥の院の方が気になるので、駐車場に戻ってそちら方面へ移動をします。
1~2kmはあるのでしょうか!?
ここから歩いて行くと往復するだけで、かなりの時間が掛かってしまいます。
その途中の街並みも・・・
趣もあって・・・
歴史を感じます。
そして入り口に到着・・・ こちらは一の橋です。
奥の院
弘法大師の御廟と灯籠堂がある(世界遺産)。参道には、皇室、公家、大名などの墓が多数並び、
その総数は正確には把握できないものの、20万基以上はあると言われている。
戦国大名の6割以上の墓所がある。奥の院の入り口は一の橋と中の橋の2箇所があるが、
正式には一の橋から参拝する。一の橋から御廟までは約2kmの道のりとなっている。
その途上には「みろく石」などの七不思議と呼ばれる場所がある。
奥の院の地図です。
ここの入り口にある駐車場は有料でした。
どうしようかと思いつつ、しばらく走ると路肩に駐車をしてもいいエリアが出てきました。
・・・なので、そこに停めます。
奥の院から云うと、順路!?的には途中なのでしょうが
あえて脇から中に入って、一度一の橋の方に戻ってみました。
こんな感じの路が、杉林の中に延々と続きます。
なんか墓を撮影するというのも、あまりいい趣味ではないのでしょうが
ここまで来ると立派な史跡でしょうから、撮ってみました。
(○×古墳でしたら、普通に写真を撮りますもんね・・・(違))
伊達政宗
石田三成
明智光秀
・・・などと変換に苦労しなくても出てくる、有名な武将の墓が随所にあります。
中の橋という橋を渡りました。
このような階段ものんびり歩く分には・・・
パナソニックをはじめ、名だたる企業の墓もありました。 社墓という言葉は知りませんでした・・・
徳川家康の次男 秀康(重文)
織田信長
豊臣家
他にもたくさん名だたる大名・有名人の墓がありました。
これは歴史好きの人にはたまらない場所でしょうね。
ここから先は奥の院でも弘法大師御廟と云って、最も神聖な場所とされているので
撮影は禁止・脱帽・・・という空間であります。
奥の院「弘法大師御廟」
弘法大師御廟は奥の院の最奥にあり、三方を山に囲まれその山すそを玉川が流れる静寂の地にあります。
玉川に架かる御廟橋は石組み橋で石板の数は36枚あります。
表からは見えませんが裏側には仏さまを表す梵字が刻み込まれてあります。
この橋を渡る時は仏様の上を歩いて渡るわけですから、杖を使わないようご注意下さい。
また御廟橋から内側はお大師さまのお休みになられている聖域ですので
飲食、喫煙、写真撮影等はできません。 高野山は、 恐山、 比叡山 と並ぶ日本三大霊場の一つでもあります。
時間を考えて、途中で止めよう・・・と考えながら歩いていたのですが
結局、最後まで行ってしまいました。
でもここで行っておかないと、後々後悔しそうでしたから
行っておいて正解だったと思います。
杉林の中をてくてく戻ります。
駐車場に戻りました。
時刻はというと、12:00でした・・・
急ぎ足で回ったつもりでも、2時間を費やしたことになります。
やはり、面白いもの(ところ)では、時間が経つのが早いようです。
ケータイを見ると、今宵同宿のお友達から連絡が入っていました。
(すみません、クルマに置きっぱなしでした・・・)
仕事が終わって、大阪を出られるようです。
・・・さてと。
この先の「高野龍神スカイライン」に向かうことにします。
ここを右折でっ。
これもまた楽しみですっ。
by chage_diary
| 2011-11-18 22:50
| お出かけ
|
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